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美女と野獣(仏・2013)

 金曜ロードショーを見ている。

 

 ベル(レア・セドゥ)が美しい。ヴァンサン・カッセルがエロイ。仏版の野獣はライオンっぽくて、尻尾も長くて可愛い。

 ベルのお父さんはなんか嫌な感じの商人。ディズニー版と違って命とられても止む無しって感じ。ベルは何を考えてるのか分からないし、自信があるようで、冷静なようで、思慮深いようでいて、全くそうでもないような気もする。行動にあまり一貫性がないし、それほど「変わり物」に見えない。普通。息を呑むくらい美しいけれど、あまり好きじゃない。

 その点野獣さんは、野獣の姿でも全然エロイし、めちゃくちゃ人間。体が獣っていうだけでそれほど獣っぽい動きもしない。動物は食ってたけど。人間だった時と性格もあまり変わってないよね。性格も尊大だし、好色だし、弱さを見せるのが魅力ということが分かってる。要するにモテ男キャラのままなんだよな。それに山路和弘さんの声がどっからどう聞いてもかっこいいから全然怖くない。むしろありがとうございます。

 

 登場する男性陣は、ベルの兄のトリスタンを除いて全員が意地汚くて頭の悪い人たちだ。野獣になる前の王子さまもそう。一言で言うと野蛮。当時の文化では普通だったのかも知れないけど見ていて気持ちのいいものではない。けれどディズニー版のガストンのように小賢しいことをしないだけマシかな。

 女性陣も頭悪い。アストリッドも役に立ってるようで立ってないし、馬鹿の親玉みたいなのと付き合ってるから実質プラマイゼロ。みんな頭悪いな。何なの。

 

 ディズニー実写版では、ベルと野獣がどうして愛し合うに至ったかをかなりの尺を割いてじっくりじっくり描写されてて、二人が恋仲になるのも説得力しかなくて、やっぱりディズニーの脚本は巧妙だなと感じるけれど、仏版はその辺がバッサリ切られていて、それ以外のシーンが掘り下げられている。今回は魔女じゃなくて妖精の力なので、その辺の描写が多いのは見ていて美しいし楽しくもあるんだけれど。

 結局、野獣とベルが愛し合う理由は今ひとつ分からないのよね。野獣は元カノを自分のせいで永遠に失ってて、ベルは夢の中で何度も野獣の人間だった時の姿を見ているわけだからこいつええ男やんけって分かってて、それで何やかんやあって一緒に居たらそりゃ付き合うわなっていうそれぐらいのことしか見ていて分からないんだよな。

 元カノのプリンセスにしたって、愛って何だろ~的なノリで人間になって恋人ゲットしてみたはいいものの、その恋人がアホなせいで自分は死ぬしお父さん激おこなのに「パパ~彼ピッピを許してあげて~」ってそんな虫のいい話はないですよ。元はと言えばプリンセスのノリが王子を野獣にしたと言ってもいいので、そう言われてみると野獣も可哀想かな。所詮は人間が妖精のルールを守れるわけがないんだもの。

 

 案の定アホな兄二人は、宝石盗めば借金返せるじゃんラッキーみたいなアホ極まりない理由で妹の恋人のおうちに忍び込んじゃうんだけど、さすがに住居侵入+窃盗+器物損壊しちゃってるのであんな目に遭ってもしょうがない。それよりベルと再開した兄たちが急にベルと野獣を助けるのがよく分からない。妹のマントについてたブローチさえ盗んだアホなのに。アホだから?

 

 わたしが現代生まれの日本人だからか、全体的に誰の気持ちも分からなくて、ただただ人間と景色の美しさを楽しむだけの映画になってしまった~

 分かりやすく勧善懲悪というわけでもないし、説明するだけの台詞や逆に言いっぱなしの部分も多い気がする。ディズニーと違った舞台や世界観は面白いし、美術もすごく凝っているだけに少し残念。

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 3回観た。(4D/3D、2D吹替×2。3D単品が見れなかったのが悔やまれる)

 

 その名も偉大なハリー・ポッターシリーズが随分前に終わってしまって、それからも時々思い出しては架空の学生生活を妄想したりしていたが、先日『ハリー・ポッターと呪いの子』の書籍が発売された。一気に読了してしまった。あの頃子供だった私達に向けて作られていると感じた。ドラコとハリーが親として対峙するときに、ようやくしがらみのない一人の子供として分かり合える場面などはとても良かった。

 それはさておく。

 

 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅。

 原題は『Fantastic beasts and Where to find them』。魔法生物飼育学で使われる教科書、『幻の動物とその生息地』と同じタイトル。

 著者は主人公であるニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニュートをエディ・レッドメインがやると聞いてもうこれはいい映画になるはずと思ってた。ちなみにニュート(とティナ)の孫は、のちに魔法生物学者になったルーナ・ラブグッドと結婚する。これはただの豆知識。

 

 舞台は1920~30年頃のアメリカ。まだ発展途上の雰囲気だが、流れる音楽はハリー・ポッター(ケルト音楽が多かった)と違ってアメリカらしいテレビ音楽やジャズが流れている。WWⅠ後の発展で自他共に認める世界最大の経済大国になった頃。全体的に明るくて陽気な音楽で構成されつつも、映像は曇り空が多いし、人々もそんなに楽しくなさそう。発展と裏腹の不安や暗さを感じさせる。

(ちなみに1920~30年といえば鉄の彫刻が生まれた時期です。これもただの豆知識)

 

 それにしても、出てくるキャラクターが全員魅力的すぎる。ニュートやティナ(キャサリン・ウォーターストン。恐ろしくスタイルが良かった)は勿論だけど、ノーマジ代表として主人公パーティに加わるジェイコブ(ダン・フォグラー)は、大体の大人は失ってしまう「信じられないことへの受容力」を忘れていない。とても心優しく、チャーミングで、それゆえニュートたちと心を通わせる。ハリー・ポッターシリーズに登場するマグルは基本的に、狭い世界の小さな幸せで満足しているような描写だけど、それに対してジェイコブはマグル代表としてはかなりポジティブな存在だと思う。

 ティナの妹クイーニー(アリソン・スドル。映画初出演だって)は、どこか浮世離れというか人間界離れ?した雰囲気で、魔法族だけの純粋な世界で生きてきたんだろうなという雰囲気がビシバシ伝わってくる。服を着替えるときも料理をするときも魔法を使う。にっこり微笑むときや魔法を使うときに唇を噛む仕草が可愛い。

 クリーデンス(エズラ・ミラー)がとても気になる存在だったし、実際今作でのキーパーソンだった。かわいそうなクリーデンス。黒髪で青白い肌で、暗い目をした男の子だ。悲しみと憎悪に飲み込まれる演技などは痛々しくてリアルだった。彼に救いがあってほしい。終盤に黒いもやが日光に漂うシーンがあって、クリーデンスはまだ生きてるはず、という意見も結構見える。わたしの意見はちょっと違う。あれはクリーデンスというより、オブスキュラスの残滓なんじゃないかと思ってる。もちろんクリーデンスが再登場したら嬉しいけど、オブスキュラスは宿主を探して生まれる生物(?)なので、クリーデンスが死んでもオブスキュラスは死なないのかも知れないな、とか。

 

 わたしが特筆したい点は、コリン・ファレルジョン・ヴォイトジョニー・デップが出ていること。映画を見るときに、なんというか「これは映画(作り物)だよ」と思って見るときと、「こういう世界が実在するよ」と思って見るときがあると思う。めっちゃ雑に言うと同じ原作を色んな監督が撮ってるとか、特に映画好きじゃない人でも知ってる役者を起用してるとか、現実に即した物語だったりとかしたら前者になると思う。世界観が全く独自だったり、監督の個性が強かったり、映画好きなら知ってる俳優を使ったり、有名俳優でも意外な役どころだったりすると後者になるんじゃないかと思う。

 映画ハリー・ポッターはわたしの中では後者だった。『賢者の石』を見たのが小学生の頃で、映画に明るくなかったというのもあると思う。マギー・スミスゲイリー・オールドマンとかは出てるけどね!アラン・リックマンも。みんなカメレオン俳優じゃないですか。存在をその世界に溶け込ませるタイプの俳優。

 上に書いたような俳優たちは(コリンはまたちょっと違うけど)わたしの中では存在感が強くて、もちろんいい意味で、あー映画だなー!って感じられる人達だった。特にジョニー・デップ。ジョニーのことは大好きだし出演してる映画は大体見てるけど、ハリー・ポッターシリーズの、しかも超主要人物のグリンデルバルトの役になるなんてびっくり。「ジョニー・デップの映画」にならないといいけどな~~~という懸念。

 

 ニュートのカバンから逃げ出した魔法生物もとにかく可愛い。わたしはデミガイズが好き。外見は賢い猿っぽいし、オカミーの子供(めちゃくちゃ巨大)の子守をするという頓珍漢なシーンもなんだかおかしくて可愛い。

 

 あと社会問題が取り上げられてると思った。魔女狩りが一つのテーマになっていることもあるし、舞台のアメリカでは魔法族は非魔法族に接触しないことが法律で定められている。それをニュートは「時代遅れ」だと揶揄する。

 MACUSA(アメリカの魔法省)で一番偉いピッカリ―議長(カルメン・イジョゴ)は、マグルに対して「彼らは恐れると攻撃的になる」と評している。これは一般的な人間全般に言えることかも知れない。的を得ていると感じる一方、マグルへの歩み寄りを拒否している政府に対しては人のこと言えないじゃんと思う気持ちもあった。

 ちなみにピッカリ―議長は「アフリカ系の女性」で、多分当時のアメリカならあり得ないことなんだと思う。

 

 最後のシーン。「雨で記憶を消すなんてお洒落すぎる」とは一緒に観た人の弁。

 ジェイコブも法律に則って魔法に関する記憶を消されてしまうんだけれど、その後オカミーの卵の殻を担保に開いたパン屋では、ニュートと一緒に探し回った魔法生物を象ったデザインのパンを販売している。お客に「どうやって思いつくの?」と尋ねられて「何となくね」と答えている。それに加え、そっと訪れたクイーニーが何も言わずとも微笑み返したりしてる。

 このとき使われたのは呪文ではなくて、スウーピング・イーヴルの体液を薄めた薬で、これは「悪い記憶を消す」作用があるとニュートは語っている。ジェイコブにとってニュートたちと過ごした時間が「悪い記憶」だとは思えないし、もしかしたら忘れてないのかもという気もする。

 忘却術ってどういう原理なのかと考えてるんだけど、記憶を「消す」、というよりは「開かない引き出しにしまう」ような感じなのかなと思う。無かったことにはならないけど、意識の表面までは上って来ない。無意識では覚えているから、非日常との出会いだった魔法生物をモチーフにしたり、恋した女性と再会して何だか通じ合ったりするんじゃないかな。というかそうだといいな。MIBでも消去した記憶を戻す機械があったじゃないの。アメリカの法律が追い付いた頃に結婚したらいいのになー!

 

 妄想が膨らみ過ぎて3000字になってしまった。

SCOOP!

2016.10.09 15:00

 

 普段は追われる立場の福山雅治が、追う立場=パパラッチ役になる!みたいな売り文句だったと記憶している。福山雅治に下品なパパラッチの役なんて出来るのか、結局スタイリッシュにかっこよくなっちゃうんじゃないのかと疑問だったが、結構しっかりと下品でエロくて汚いおっさんになっていて良かった。やっぱりちょっとかっこよかったけどそれは仕方がないと思う。

 舞台は東京。猥雑で、カラフルで、憧れと挫折の煮凝りみたいな都市だ。全編通してずっと少しずつ下品、感情的で、好き嫌いの分かれそうな映画だと思いながら見ていた。大人向け(感情を無理くり揺さぶられることにある程度慣れている人向け)なんだろうなと思う。

 

 落ちぶれたパパラッチの都城静(福山雅治)は、本当はファッション誌で仕事がしたかった行川野火(二階堂ふみ)の教育係を任される。最初は嫌々同行するものの、芸能スクープというものの下世話な高揚感や陶酔感に次第に夢中になっていく野火。彼女が二度吐く「この仕事最低ですね」というセリフは、前者と後者ではまったく異なる意味を持っている。

 

 パパラッチの仕事を一緒にやっていくうちに静と野火はなんとなくいい関係になってしまう。貞操観念などないに等しい静(一番冒頭のシーンがセフレとのカーセックスだからね)と、若くて良くも悪くも不安定な野火がそういう感じになるのは必然なんだろうなと思う。

 野火の無鉄砲な根性に静も感化され、同時にいい雰囲気に……なったところで、副編集長の定子(吉田羊)が部屋にやって来る。そこで、二人は元夫婦であったことが明かされる。どうやらもう離婚済みなのだが、静の部屋に食事を作りに行く程度には関係が続いているようである。気まずさに静の部屋を飛び出す野火をベランダから見下ろしながら、静と定子のキスシーン。アドリブだったらしいけど、この描写いる?と首を傾げる。

 定子は静と野火がキスしかけているところに出くわしており、二人のただならぬ様子は目撃している。それを踏まえて、「ちょうどよかった。手伝って」と野火に呼びかける。ここからは定子と静に性的な関係があろうとなかろうと、お互いにオンリーワンではないですよ、というスタンスが見えると思う。静が他の誰かとセックスしようが心痛めたりしませんよ、というスタンス。だけど、その時キスできなかった野火を見送りながら、その相手である静とキスをする(しかも愛情を感じるキス)、というのは、普通に考えたら定子の嫉妬心や独占欲の描写ということになってしまうんじゃないか? 別の解釈をすれば、定子自身も性に奔放であるとか、それだけ二人の関係が揺るがないものであるとか考えられるけど、腑に落ちない。

 野火と静のラブシーンもなんだか。直接的なセリフや描写はなく、朝日が白く照らしていて、スローモーションで。不潔で下品で色んな事を諦めている男・静と、素朴で好奇心旺盛だが憧れには遠く及ばなかったちょっとダサイ女の子・野火のセックスなのに、そんなに綺麗に撮っちゃっていいのかよと。そんな「二人は結ばれた」みたいな描写でいいのかよ。もっと生活感を出してほしいよ。静がちゃんと服を脱いでたのも、野火がブラジャー付けたままだったのもよく分からないよ。

 なんかわざとらしい。エロが全部わざとらしい。こういう映画ならもっと汚くていい。ただのサービスカットだった。

 

 取材のシーンは凄くリアルで、ロケ地も本当に芸能人が出没するスポットを選んでいるらしいし、しっかり顔を撮るために花火や別の何かで注意を引くとか、あえて挑発するとか、そういったアイディアも全て実在するテクニックなのだそうだ。

 実況検分中の連続殺人犯の顔を独占撮影するために、馬場(滝藤賢一)が奮闘するギャグ展開などはハラハラしつつも楽しかったし、普段はグラビアでページ数を稼いで食い繋いでいるSCOOP!編集部が、一つにまとまって協働する図は熱くなる。

 

 リリー・フランキーの怪演も凄かった。リリーさんはヤバイ人の役をさせたら天下一品ですね。ヤク中の情報屋・チャラ源を演じていて、静とは知己の仲。スウェットはよれよれ、髪ボサボサ、常にヘラヘラ笑っている。しかし、野火の存在によって静が希望を見出していくのに対し、情報屋に落ちぶれて妻子にも捨てられているチャラ源はそのままどんどん沈んでいく。団地の階段でのシーンは象徴的で、静は階段を上り、チャラ源は下り、それぞれの住処へ帰っていく。

 このチャラ源の終盤の狂いっぷりは、本当に恐怖を感じた。薬の過剰摂取で狂ってしまったチャラ源は、腹立ち紛れに妻とその交際相手を射殺し、娘を人質にとり大騒ぎを起こす。自分の勇姿を撮ってくれと呼び出された静は、愛用の一眼レフではなく、自分にとって宝物であるライカを持ってチャラ源を説得しに向かう。この時点で、静はチャラ源と共倒れする気だったのだと思われる。

 騒ぎを聞きつけてやって来た野火が物陰からカメラを構える姿に、チャラ源は静以外に撮らせる気はないと激昂し、発砲する。その瞬間、静は野火に「撮れ」と目配せし、銃口を無理やり自分に向ける。

 静は『崩れ落ちる兵士』を撮ったロバート・キャパに憧れ、カメラマンになっていた。キャパになりたかったが、なれなかったのである。代わりに自分を被写体にすることで、野火をキャパに近付けたかったのだ。と思う。

 

 映画に込められたメッセージが多くて、どれが主題なのかちょっと分からなかった。わたしはこの映画の硬派な部分がとても好きだったし、パパラッチの描写や芸能スクープという下世話な仕事もリアリティーがあって面白かった。でも、それだけに、終盤から急激に硬派側にシフトされたことで、定子や野火との恋愛関係がぼやけてしまったのが引っかかった。

 面白かったけど、感情で両肩を掴んでガタガタ揺すられるような感覚を覚える映画だった。とてもテレビ的で、日本的だなあと思った。

ゴーストバスターズ(2D)

2016.09.21 21:20

 

 学校帰りに。

 時期的に3Dは見られなかったので2Dで。でも、これは3D向けに作られてることを強く感じた。

 

 ストーリー的には1984年の『ゴーストバスターズ』を概ね踏襲しているし、ちょこちょこオマージュと思われる演出もあるので、前作を知っているとほくそ笑みながら見ることができる。

 素粒子物理学者であるエリン(クリスティン・ウィグ)は、かつてアビー(メリッサ・マッカーシー)とゴーストの実在を証明するための研究をしていて、共著で書籍を発表していたのがバレて、職場である大学をクビになるところから物語がスタートする。本人はその過去を忌むべきものとして封印し、親友であったアビーとも疎遠になっていた。しかし、彼女たちとゴーストが作中初めて出会うシーンでは少女のように興奮し、アビーと喜びを分かち合う。エリンが本心ではゴーストの存在をまだ信じていたことや、アビーとの友情も終わっていなかったことがわかるのが嬉しい。

 メカニック担当のジリアン(ケイト・マッキノン)と元・地下鉄職員のパティ(レスリー・ジョーンズ)が加わってゴーストバスターズになる。

 やっぱり書かなければいけないのはケヴィン(クリス・ヘムズワース)の存在だろう。やっぱりびっくりするほど男前。事務として雇われたが事務仕事をしている姿を恐らく一度も見ていない。大抵自分の写真写りを気にしたり(裸でサックスを持っている写真の破壊力がやばい)して一日を過ごしている。天然なのか単に馬鹿なのか分からない。意味不明すぎて一周回って愛おしくなってしまう。4人とお揃いのユニフォームを着て自分もゴーストバスターズの一員だと宣言したり、ケヴィンのほうも4人に対してそれなりに愛着を感じている様子。でも基本的に役に立つことは一切ない。

 

 1984年版では彼らを問題視している行政とのいざこざからひと悶着起きるが、今作では行政も警察も概ね彼女たちに協力的な立場を示している。でも今作では、協力には感謝するものの、表向きにはインチキというレッテルを貼るなどちょっとやり口が陰湿。

 また、1984年版は神(ゴーザ。ヒッタイトの神)が物語上のラスボスだったのに対して、今作は一人のメンヘラギーク野郎・ローワン(ニール・ケイシー)があの世じゅうの?ゴーストをこの世に召還することを野望に4人の前に立ちはだかる。神はやっぱり神なので、ある種の超越者だし、人間の都合は関係ない存在だ。それゆえ元の世界にお帰り頂ければ、お互いに丸く収まることができる。それに比べて今作のラスボスは人。だいぶイカレてるけど結局のところは人。あまり感情移入できるような好人物ではないが、なんだか絶望しちゃってる今の状況には何か理由や背景があったのだろうなと想像できる。だからと言って擁護できるポイントはあまりなかったけど。ラスボスが神から人、超越者から社会にあぶれた弱者に代わったことは大きな違いだと思う。

 

 1984年版は特撮感の強いところがわたしの好きなポイントだった。現代では技術も桁違いだし、さすがにCGだろうなと思っていて、果たしてめちゃくちゃ楽しいCG描写だった。アクションシーンはとても楽しく、倒しまくり壊しまくりで爽快感が凄かったし、普通のおばちゃん4人組(パティは若干例外だけど)がゴースト相手に飛んだり跳ねたりするのも見ていてワクワクさせられた。それに加え、要所要所では人が入ってゴーストを動かしているのが分かったり、特撮要素を残していてくれたのが特撮好きにとっては嬉しかった。

 

 基本的に馬鹿でハイテンションなノリで何も考えずに見れるけど、時々核心を突くようなセリフがあったり、人間の感情や行動の移り変わりがとても自然で筋が通っていて、いい映画だなと思います。

クリーピー 偽りの隣人(原作未読)

2016.07.03 15:15

ソラリス シアター04

 

 ありえないこと、あってはならないことほどありそうな気がするし、心のどこかではそんな非日常に足を踏み入れることを望んでいたりする。

 引っ越し先の隣人がとんでもない人間だった。それはままあることだ。(あってほしくはないが) 原作の小説では人当りのよい中年が後々本性を現していくのだそうだが、映画の隣人・西野(香川照之)は初めから怪しい。どこからどう見ても怪しい。ことさらに自然物の強調された画面のなかで、影に溶けこむように立っている西野の異質さは最初に見たときからずっと気持ち悪い。居心地の悪い気分にさせられる。

 

 自然物と対照的に表されているのが高倉(西島秀俊)の職場である大学構内。きわめて現代的で立体的なデザインがされている。それらと同じように、あらゆる場面で光の描写、影の描写が露骨すぎるほどに表現されていて、現実と虚構だとか、日常から非日常へ嵌まっていく過程を鑑賞者が嫌でも追体験していくことになる。

 中でも、ずっと夢を見ているような康子(竹内結子)が美しかった。最後の絶叫が本当に素晴らしくて(台本にはなかったらしい)、竹内結子の凄さを感じた。

 彼女のなかでは始めから夫婦の問題だった。西野は誘導がほんとうに巧妙で、「旦那さんと僕、どっちが魅力的ですか」と康子に問いかける。本当なら勿論夫である高倉を魅力的だと答える場面だが、理想の夫婦像を描けていないという葛藤を抱えている康子は「夫が魅力的だ」と即答することができない。そうすると、康子の心理では「なぜ即答できなかったのだろう→西野に魅力を感じているのではないか」という考えに至る。紛れもなくそれは康子自身が作り出した妄想であり、事実ではない。だが嘘だと断じる術を康子は持っていない。このようなやりとりがいちいち巧妙で、西野がいわゆる一般的な「悪意のある人間」ではないことが強調されている。西野の一連の言動は、彼にとってはごく自然なことなのだ。

 

 最後の場面で、高倉の「それがお前の落とし穴だ」という台詞の真意が初めは分からず、単に高倉の意志の強さでどうにかなったということなのかと思っていたが……よく考えると、高倉の犯罪に対する好奇心は学者的でありすぎて、端的にいえば異常だ。西野が異常であるように、高倉もまたある意味では異常だったのだろうなと思う。西野は自覚的に異常行動をとっているわけではなくむしろその逆であるので、自分と同じように異常な人間が目の前にいることには気付けなかったのかも知れないとは思う。

 あっけなく撃たれ、倒れた西野の表情や姿勢が絶妙だった。少し笑っているようにも見える。風が吹き付けて枯葉がかかるのもとても美しく、西野は本当に死んだのか?まだ生きているんじゃないか?と後を引く終わり方。だけど本当にあっけない。人間は死ぬ。そういうところを黒沢監督はかなり意識的に作っているのかなあと思っている。

 

 黒沢清監督は『回路』が大好きで、何度も観ている。今作も黒沢監督の人間観、のようなものがよく見える作品だと思った。

 少しだけ文句を言いたいこと、大人の事情なので仕方がないことなのだが、パンフレットで澪(藤野涼子)のインタビューが読みたかった。考察・批評はとても面白かった。

喰女-クイメ-(DVDにて)

2016.06.30

 

 色んなことが一段落して、一人で寂しいので映画を見る。

 見ようと思っていたDVDが全部借りられていたので、気になっていたけど見ていなかった映画を借りる。

 監督は三池崇史。痛そうだな、という印象(物理的に)。94分と短い作品。原作は山岸きくみの『誰にもあげない』。気になるので読んでみようかなと思う。

 EDが素敵だった。

 

 気になる映画は、見る前にレビューを読んでしまうのだが、この作品に関してはレビューを読んでもいまいち分からなかった。レビューで満足しちゃうと見ないんだけれど。好きなレビューサイトをいくつかまわったけれど、視点の定まらなさそうなところが面白そうで結局観賞する。

 柴咲コウ市川海老蔵はやっぱり綺麗。脇を固める役者さんも豪華。加代子を演じたマイコがとっても素敵だなあと思った。

 

 舞台を映像にしたような撮り方で正面性が高い。舞台の美術がすごく美しくて、現代的な作り方をされてる。ドッグヴィルとか、アンゲロプロスの作品とかを思い出した。画面もずっと暗いし、ずっと舞台のなかというか、幻想のなかにいるような感じがする。もしかしたら最初から最後まで、全部誰かの妄想なのかも知れないし。

 

 浩介(市川海老蔵)は売れない役者という設定らしいんだけど、正直言って海老蔵さんが役者としてしっかり存在しすぎているのであまり説得力がないような気がする。あまり映画では描かれていないけど。

 美雪(柴咲コウ)は劇中では最初から病んでいる。妊娠検査薬を何度も使ったり、大量の料理を作ったり。下半身ゆるゆるで軽薄な浩介に対して、徹底的に待つ女の姿勢を貫いているけど、もう現実と妄想の境が分からなくなっている。身籠ってもいない子供をフォークを使って堕ろそうとしたり。(※産もうとしていた説もある)

 見ていてとてもつらい。もうずっと昔からの積み重ねで、二人の関係はとっくの昔にだめになっていて、お互いに都合のよいところしか見ないようにしている。どうしてこんなに行き違ってしまったんだろう。劇中では何もわからない。ただ二人がだめになってしまっているというだけ。

 

 わたしが見ていてとても良いなあと思ったのは、宅悦(伊藤英明)の存在。伊藤英明ってこんなことも出来たんだなあ。なんだかいつも誠実な好人物ばかり演じているようなイメージなので、宅悦のような俗物も出来るならそういう役もたくさんやってほしいな。良い意味で、全然伊藤英明らしさがなかった。

 

 結局、自分の業に飲み込まれてしまったということなんだろうか。

 それとも、これが愛なんだろうか。

ズートピア2D吹替(2度目)

2016.06.05 13:55

MOVIE ON シアター7

 

 2回目を見ました。

昼食前だったので、ポップコーンとホットドッグとドリンクのセットを購入。

日曜日だったためかとても混雑していて、最前列真ん中の席。イオンシネマはいつ行っても空いてるんだけれど何が違うんだろう。家族連れが多くて、観賞中も後ろの席の小さな子による合いの手が微笑ましかった。

 

 2周目なので、言葉遣いやセリフを見るとなるほどなあと思う場面が本当に多くて、改めて脚本の作り込みに感心した。

それだけに、吹替でなく字幕で見るほうが面白いのだろうなあと感じる。どうして関東近辺にしか字幕の上映がないんだろうなあ。

色んな小ネタに気を配りながら見ていたんだけど、結構見落としてしまったのでもう一回くらい見たいところ。ニックとジュディの会話のシーンで、ブルーベリーを食べるところすら伏線になっているなんて本当に抜け目がない。

 

 ガゼルが歌う主題歌は、あまり日本語の音には合わない楽曲じゃないかなあ、というのと、シャキーラがドスの効いた張りのある声なのに対して、Amiはポップス向きの喉を使った可愛い声なのでライブのシーンは吹替と歌声にやはり違和感がある。Amiは何も悪くないと思うけど。割と棒読みだったけど、ミステリアスな歌姫の雰囲気で悪くないと思う。

 

 それと一緒に見ていた人間が指摘していたことで、犬や猫のキャラクターが居なかった。愛玩動物ズートピアに居ないのでは?ということに気付かされた。

 

 2周目の感想はこれくらい。