ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 3回観た。(4D/3D、2D吹替×2。3D単品が見れなかったのが悔やまれる)

 

 その名も偉大なハリー・ポッターシリーズが随分前に終わってしまって、それからも時々思い出しては架空の学生生活を妄想したりしていたが、先日『ハリー・ポッターと呪いの子』の書籍が発売された。一気に読了してしまった。あの頃子供だった私達に向けて作られていると感じた。ドラコとハリーが親として対峙するときに、ようやくしがらみのない一人の子供として分かり合える場面などはとても良かった。

 それはさておく。

 

 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅。

 原題は『Fantastic beasts and Where to find them』。魔法生物飼育学で使われる教科書、『幻の動物とその生息地』と同じタイトル。

 著者は主人公であるニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニュートをエディ・レッドメインがやると聞いてもうこれはいい映画になるはずと思ってた。ちなみにニュート(とティナ)の孫は、のちに魔法生物学者になったルーナ・ラブグッドと結婚する。これはただの豆知識。

 

 舞台は1920~30年頃のアメリカ。まだ発展途上の雰囲気だが、流れる音楽はハリー・ポッター(ケルト音楽が多かった)と違ってアメリカらしいテレビ音楽やジャズが流れている。WWⅠ後の発展で自他共に認める世界最大の経済大国になった頃。全体的に明るくて陽気な音楽で構成されつつも、映像は曇り空が多いし、人々もそんなに楽しくなさそう。発展と裏腹の不安や暗さを感じさせる。

(ちなみに1920~30年といえば鉄の彫刻が生まれた時期です。これもただの豆知識)

 

 それにしても、出てくるキャラクターが全員魅力的すぎる。ニュートやティナ(キャサリン・ウォーターストン。恐ろしくスタイルが良かった)は勿論だけど、ノーマジ代表として主人公パーティに加わるジェイコブ(ダン・フォグラー)は、大体の大人は失ってしまう「信じられないことへの受容力」を忘れていない。とても心優しく、チャーミングで、それゆえニュートたちと心を通わせる。ハリー・ポッターシリーズに登場するマグルは基本的に、狭い世界の小さな幸せで満足しているような描写だけど、それに対してジェイコブはマグル代表としてはかなりポジティブな存在だと思う。

 ティナの妹クイーニー(アリソン・スドル。映画初出演だって)は、どこか浮世離れというか人間界離れ?した雰囲気で、魔法族だけの純粋な世界で生きてきたんだろうなという雰囲気がビシバシ伝わってくる。服を着替えるときも料理をするときも魔法を使う。にっこり微笑むときや魔法を使うときに唇を噛む仕草が可愛い。

 クリーデンス(エズラ・ミラー)がとても気になる存在だったし、実際今作でのキーパーソンだった。かわいそうなクリーデンス。黒髪で青白い肌で、暗い目をした男の子だ。悲しみと憎悪に飲み込まれる演技などは痛々しくてリアルだった。彼に救いがあってほしい。終盤に黒いもやが日光に漂うシーンがあって、クリーデンスはまだ生きてるはず、という意見も結構見える。わたしの意見はちょっと違う。あれはクリーデンスというより、オブスキュラスの残滓なんじゃないかと思ってる。もちろんクリーデンスが再登場したら嬉しいけど、オブスキュラスは宿主を探して生まれる生物(?)なので、クリーデンスが死んでもオブスキュラスは死なないのかも知れないな、とか。

 

 わたしが特筆したい点は、コリン・ファレルジョン・ヴォイトジョニー・デップが出ていること。映画を見るときに、なんというか「これは映画(作り物)だよ」と思って見るときと、「こういう世界が実在するよ」と思って見るときがあると思う。めっちゃ雑に言うと同じ原作を色んな監督が撮ってるとか、特に映画好きじゃない人でも知ってる役者を起用してるとか、現実に即した物語だったりとかしたら前者になると思う。世界観が全く独自だったり、監督の個性が強かったり、映画好きなら知ってる俳優を使ったり、有名俳優でも意外な役どころだったりすると後者になるんじゃないかと思う。

 映画ハリー・ポッターはわたしの中では後者だった。『賢者の石』を見たのが小学生の頃で、映画に明るくなかったというのもあると思う。マギー・スミスゲイリー・オールドマンとかは出てるけどね!アラン・リックマンも。みんなカメレオン俳優じゃないですか。存在をその世界に溶け込ませるタイプの俳優。

 上に書いたような俳優たちは(コリンはまたちょっと違うけど)わたしの中では存在感が強くて、もちろんいい意味で、あー映画だなー!って感じられる人達だった。特にジョニー・デップ。ジョニーのことは大好きだし出演してる映画は大体見てるけど、ハリー・ポッターシリーズの、しかも超主要人物のグリンデルバルトの役になるなんてびっくり。「ジョニー・デップの映画」にならないといいけどな~~~という懸念。

 

 ニュートのカバンから逃げ出した魔法生物もとにかく可愛い。わたしはデミガイズが好き。外見は賢い猿っぽいし、オカミーの子供(めちゃくちゃ巨大)の子守をするという頓珍漢なシーンもなんだかおかしくて可愛い。

 

 あと社会問題が取り上げられてると思った。魔女狩りが一つのテーマになっていることもあるし、舞台のアメリカでは魔法族は非魔法族に接触しないことが法律で定められている。それをニュートは「時代遅れ」だと揶揄する。

 MACUSA(アメリカの魔法省)で一番偉いピッカリ―議長(カルメン・イジョゴ)は、マグルに対して「彼らは恐れると攻撃的になる」と評している。これは一般的な人間全般に言えることかも知れない。的を得ていると感じる一方、マグルへの歩み寄りを拒否している政府に対しては人のこと言えないじゃんと思う気持ちもあった。

 ちなみにピッカリ―議長は「アフリカ系の女性」で、多分当時のアメリカならあり得ないことなんだと思う。

 

 最後のシーン。「雨で記憶を消すなんてお洒落すぎる」とは一緒に観た人の弁。

 ジェイコブも法律に則って魔法に関する記憶を消されてしまうんだけれど、その後オカミーの卵の殻を担保に開いたパン屋では、ニュートと一緒に探し回った魔法生物を象ったデザインのパンを販売している。お客に「どうやって思いつくの?」と尋ねられて「何となくね」と答えている。それに加え、そっと訪れたクイーニーが何も言わずとも微笑み返したりしてる。

 このとき使われたのは呪文ではなくて、スウーピング・イーヴルの体液を薄めた薬で、これは「悪い記憶を消す」作用があるとニュートは語っている。ジェイコブにとってニュートたちと過ごした時間が「悪い記憶」だとは思えないし、もしかしたら忘れてないのかもという気もする。

 忘却術ってどういう原理なのかと考えてるんだけど、記憶を「消す」、というよりは「開かない引き出しにしまう」ような感じなのかなと思う。無かったことにはならないけど、意識の表面までは上って来ない。無意識では覚えているから、非日常との出会いだった魔法生物をモチーフにしたり、恋した女性と再会して何だか通じ合ったりするんじゃないかな。というかそうだといいな。MIBでも消去した記憶を戻す機械があったじゃないの。アメリカの法律が追い付いた頃に結婚したらいいのになー!

 

 妄想が膨らみ過ぎて3000字になってしまった。