4月見た映画

▼ゴースト・イン・ザ・シェル(4D3D吹替)

 だいぶ好きだったが、攻殻機動隊というより素子の映画だった。素子と時々バトー。この映画自体が素子(劇中ではミラ・キリアン少佐)の出自の謎を探るストーリーなので、まあ素子回と考えればいいのかなという気もするけど。トグサ(チン・ハン)が切れ者っぽくてかっこよかったんだけどあんまり見せ場がなかったし、見せ場は一応あったものの大好きなサイトーは登場シーン約2秒。イシカワ、ボーマも一応居るけど、パズの代わりにラドリヤという女性がメンバーに入ってる。紅一点だとアレ的にアレだったのかな。

 スカーレット・ヨハンソンの少佐はかなり良かったよね。メスゴリラ感出てた(褒め言葉)。当然すごい美人なので全身義体の作り物っぽさもかなり強調されてた感じもあった。バトーのピルウ・アスベックもめちゃくちゃバトーだった。あまりにも本物過ぎてちょっと笑ってしまうレベル。

 さすがのドリームワークスさんという感じで素子たちの暮らす世界は本当にそこにあるみたいにリアルで、サイバーで、スラムで、雑多で過剰で和洋折衷で凄くよかった~。わたしもあそこに住みたい。VRソフトかなんかで出してほしい。

 素子が女子高生という設定をどこかで見て、どういうこっちゃと思って見ていたけど面白い切り口だった。アニメ本編ではかなり断片的で複雑な素子とクゼとの出会いを、映画用にかなり分かりやすくシンプルにまとめていて、それが素子とクゼどっちの行動原理にも繋がっているというのがなるほどね~と思った。

 タチコマは出ないのかなと思ってたけど、戦闘シーンで敵の戦闘兵器っぽい感じでそれらしいのが登場しましたね。

 あと素子の母親のハイリ(桃井かおり)の吹き替えが桃井かおりじゃなくて、俳優の大西多摩恵がだいぶ桃井かおりに寄せた演技でやってたことはちょっと面白かった。

 

夜は短し歩けよ乙女

 良いに決まってるじゃん。あとチケット特典の先輩から乙女への手紙もよかった。

 映画用に凝縮されたストーリーになっていて、一年が一日ぐらいに縮まってたりしたみたいだけど、時間の流れが延びたり縮んだりする感覚、独特の色彩感覚、およそ平常の人間とは思えない挙動の登場人物たち、ぐるぐる展開していく映像は多分ストーリーを理解してなくてもじゅうぶん楽しいんだろうなと感じる。

 古本市のシーンで小津(と同じ外見の子供)が出てきたので笑った。

 

美女と野獣(字幕)

 最高でしたね~。今、美女と野獣をやるならそのまま実写にするんじゃ駄目だろうなと思っていたけれど、うまいこと持っていったな~と思った。

 野獣のデザイン、だいぶヤギ要素が強めで、ヨーロッパ的デザインだなあと思った。確かに野獣なんだけど、あまり獰猛な感じはなくてむしろ賢者っぽい雰囲気もある。自虐的に「高等な教育を受けた」とも言ってたけどね。

 本が好きで田舎暮らしに飽き飽きしているし、変人と思われてちょっといじめられちゃってるベル。この時代は女性が勉強する(したいと思う)なんて理解不能なことだったんでしょうかね。町民は全体的にあまり物事を考えてないというか、乗せられるままに動いていくように描写されてたし。そんなベルが、野獣(しかも自分と同じくらい本の話ができる)から膨大な本を図書館ごと「あげる」なんて言われたらそりゃもう好きになっちゃうよな。何なら初めて話の通じる相手に出会ったくらいの勢いだもん。

 野獣がベルのためにパリに連れて行ってあげるシーンなどは素敵でしたね。ベルと父がバラにこだわっていた理由を野獣も察して、父を幽閉した件の和解に繋がるいいシーンなんですよね。

 『美女と野獣』ファンあるあるとして、「野獣のままのほうがよかった」という意見があると思う(わたしもそう思う)んだけど、最後のシーンの

ベル「ヒゲを生やしたら?」

王子「がおー」

の可愛いやりとりで回収されましたね。

 野獣がハンサム王子になってめでたしめでたしだったら、顔以外ゴミクズのガストンとくっついても変わらないじゃんっていうことなんだけど、当然ベルは野獣の内面を愛しているわけなので、容姿は関係ないんですよね。でもそれはそれとして、愛する人の容姿が当初好みじゃなかったとしても愛着がわくものなんだよな。もふもふ状態の野獣とずっと過ごしてたベルはもうその姿を気に入ってたんだろうと思うし、何よりファンを代表してよくぞ言ってくれた。正妻に言うセリフじゃないが。

 ガストンとル・フウの関係も良かったですね。ル・フウは調子のいい腰巾着のようでいてガストンをうまく転がしてるし、間抜けなガストンを可愛く思ってるような節があるし、ガストンが人気者でいるのを喜んでるんだよね。ガストンも自分を愛してくれてる人がずっとそばに居たのに、美女=好きぐらいの単細胞なので全然通用しなかった。本当にアホです。ル・フウは切ないけど重要なキャラクターになってましたね。ガストン役の人(ルーク・エヴァンス)がめちゃくちゃガストンでびっくりした。完全にアニメがそのまま実写になってましたね。

 折に触れて何度も観たい映画になりました。

3月見た映画

▼モアナと伝説の海(2D吹替)

 マッドマックスだと聞いてたけど、マッドマックスだった。行って帰ってくる話。マッドマックスは立ち寄って去る話って感じだけど。水の表現は本当にすごい。CG業界では定期的に「水」がアップデートされるような気がする。

 ついにディズニープリンセスは王子様なんて待たずに一人で冒険できるようになった。モアナは村長の娘なのでれっきとしたプリンセスではあるんだけど。救ってくれる人じゃなくて、信頼でき、信頼してくれる存在(マウイ)がいることが自分を強くしてくれるということなんだろうね。選んだ側の海はもうちょっと手伝ってやれよ、というか自分で返せばよくね?とは思ったけど。

 たぶんポリネシアらへんが舞台なんだけど、装束や伝統的なタトゥーも凄く美しいし(おばあちゃんの背中のエイが素敵)、顔や体つきもすごく魅力的だった。ちゃんと「生きている」感じがする。「プリンセス」から想像されるのは細身ですらっとしてか弱くて顔もバッチリ黄金比でみたいなのばっかりだったけど、それだけが美しいってわけじゃないんだよね~ということを表現してくれてありがとう。

 

▼SING(2D字幕)

 嫌いだった。

 何が嫌いって、主人公のバスター・ムーンがクズのままで最後まで何も成長しないんだよな。音楽やショーが大好きで、素晴らしいものは素晴らしいと自信満々で言えることや、演出の技術を持っている(イカをスカウトするくだりは面白綺麗だった)ことは美点だと思うけど、逆にどこまでも無責任で人任せにも見える。劇中歌やライブのシーン、ショーのメンバーがみんなそれぞれ何か背負いながら克服していくのを見ているのも楽しかった。だがバスター・ムーン、てめえは駄目だ。

 ミニオンも全然乗れなくてただただ不愉快な気持ちになったし、イルミネーション・エンターテイメントの作品がただ単に合わないんだと思う。

 

キングコング:髑髏島の巨神(4D吹替)

 面白かったですね~~。ただ佐々木希の吹き替えはマジで終わってた。佐々木希はお芝居も下手だから声の演技なんて何をかいわんやでしょ。

 今まで見たキングコングは、人間の領域に連れて来られてしまってるので、そこに居るだけで破壊者になってしまう。コングは悪くないけど無関係な人間も悪くないからこそ悲しい話にもなってたんだけど、今作はもうどこからどう見ても人間様が100億パーセント悪い。勝手に彼らの領域に侵入して勝手に攻撃して返り討ちにされてるわけで、これはもう、何も擁護ができないです。ということで、何の葛藤もなしにキングコングの強さを享受できる。これはものすごい爽快感でしたね。

 外の人達(主人公界隈)にとっては単なる研究やあわよくば支配の対象であるコングは、そこに住む民族にとっては偉大な守り神で畏怖の対象であるわけです。

 パッカード大佐(サミュエル・L・ジャクソン)がマジで脳筋クソ野郎だった。でもこういう人って当時はたくさん居たんだろうなと思わせられた。彼は軍人としての自我しか持っていないので、戦う相手が居なければ架空の敵を作り出してでも侵略することでしか生きられないんですな。

 コンラッド(トム・ヒドルストン)はよく考えるとそれほど活躍してないんだけど、画面に映ってるだけで安心感があるすごいやつだ。パッカードたち軍人チームに対してこちらはコングを理解して共闘するという展開も熱かった。あと地味にムカつくキャラが全員死んだのもよかったです。

 4Dで鑑賞したけどガタンガタン動くし、何より飛んでくる水の量が他の映画に比べすごかったですね。霧みたいにピャッと飛んでくるだけじゃなくて、そこそこの量でビチャッと来たりもした。楽しかったです。

 

ラ・ラ・ランド

 なんか凄く刺さりました。ミュージカル映画は元々好きなのですが、ミュージカル映画へ捧げるミュージカル映画っていう見方で良かったのかなあ。劇的に美しかったですね。そして凄い情報量だった。見るの疲れたもん。ハリウッドを舞台にしたからには、あれぐらいの情報量がないとやはり足りないんだろうね。

 『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』を彷彿とされる映像やストーリー展開でした。というかラストなんてまんま『シェルブールの雨傘』。あれもわたしは大好きな映画なので、それを違った形で見ることが出来て嬉しくなったりもした。

 手に入れた幸せよりも、手に入れられなかった幸せのほうが美しく見えちゃったりするんだよな~っていうことは思いましたね。だからと言って現在の幸せも確かに自分を満たしてくれているわけで、それをみすみす手放すような真似はできない程度にはミア(エマ・ストーン)もセブ(ライアン・ゴズリング)もたくさん努力して現在の場所に立っている。だけど今でも心の一部を預け合った存在であることはお互い諒解しているのね。

 でも二回目は暫く経ってからでいい。心臓を掴まれすぎて見終わったあとがしんどい。

 

ひるね姫~知らないワタシの物語~

 うーん、少し物足りなかった。神山健治だったので見たんだけれど。

 夢と現実を行ったり来たりする話や、それらがリンクして干渉し合うような話はめちゃくちゃ大好物だし、ロボットも好きだし、魔法を使う道具がタブレットというアイディアも面白いなと思った。声もちゃんとした俳優さんが当ててるし。

 なんだか駆け足のストーリーのようでいて、でもこれ以上掘り下げても出て来なさそうな感じもあって、面白いんだけど、登場人物の行動の意図があんまり理解できなかったりして、うーん、なんだろう、この気持ちはなんだろう。全体的に、「全体」を保つためにキャラクターが動いてる感じがあった。渡辺の謀略が露呈して大騒ぎになる大サビともいえるシーンでは、やっぱり夢と現実がないまぜになって魔法や巨大ロボットでドタバタアクションしてほしいけれども、そもそも夢と現実が混ざるにはココネが眠らなきゃいけなくて、そんな大事な局面でお前、寝んなよっていう……。

 攻殻サマーウォーズを足して10倍ぐらい希釈した感じだったなあ。

美女と野獣(仏・2013)

 金曜ロードショーを見ている。

 

 ベル(レア・セドゥ)が美しい。ヴァンサン・カッセルがエロイ。仏版の野獣はライオンっぽくて、尻尾も長くて可愛い。

 ベルのお父さんはなんか嫌な感じの商人。ディズニー版と違って命とられても止む無しって感じ。ベルは何を考えてるのか分からないし、自信があるようで、冷静なようで、思慮深いようでいて、全くそうでもないような気もする。行動にあまり一貫性がないし、それほど「変わり物」に見えない。普通。息を呑むくらい美しいけれど、あまり好きじゃない。

 その点野獣さんは、野獣の姿でも全然エロイし、めちゃくちゃ人間。体が獣っていうだけでそれほど獣っぽい動きもしない。動物は食ってたけど。人間だった時と性格もあまり変わってないよね。性格も尊大だし、好色だし、弱さを見せるのが魅力ということが分かってる。要するにモテ男キャラのままなんだよな。それに山路和弘さんの声がどっからどう聞いてもかっこいいから全然怖くない。むしろありがとうございます。

 

 登場する男性陣は、ベルの兄のトリスタンを除いて全員が意地汚くて頭の悪い人たちだ。野獣になる前の王子さまもそう。一言で言うと野蛮。当時の文化では普通だったのかも知れないけど見ていて気持ちのいいものではない。けれどディズニー版のガストンのように小賢しいことをしないだけマシかな。

 女性陣も頭悪い。アストリッドも役に立ってるようで立ってないし、馬鹿の親玉みたいなのと付き合ってるから実質プラマイゼロ。みんな頭悪いな。何なの。

 

 ディズニー実写版では、ベルと野獣がどうして愛し合うに至ったかをかなりの尺を割いてじっくりじっくり描写されてて、二人が恋仲になるのも説得力しかなくて、やっぱりディズニーの脚本は巧妙だなと感じるけれど、仏版はその辺がバッサリ切られていて、それ以外のシーンが掘り下げられている。今回は魔女じゃなくて妖精の力なので、その辺の描写が多いのは見ていて美しいし楽しくもあるんだけれど。

 結局、野獣とベルが愛し合う理由は今ひとつ分からないのよね。野獣は元カノを自分のせいで永遠に失ってて、ベルは夢の中で何度も野獣の人間だった時の姿を見ているわけだからこいつええ男やんけって分かってて、それで何やかんやあって一緒に居たらそりゃ付き合うわなっていうそれぐらいのことしか見ていて分からないんだよな。

 元カノのプリンセスにしたって、愛って何だろ~的なノリで人間になって恋人ゲットしてみたはいいものの、その恋人がアホなせいで自分は死ぬしお父さん激おこなのに「パパ~彼ピッピを許してあげて~」ってそんな虫のいい話はないですよ。元はと言えばプリンセスのノリが王子を野獣にしたと言ってもいいので、そう言われてみると野獣も可哀想かな。所詮は人間が妖精のルールを守れるわけがないんだもの。

 

 案の定アホな兄二人は、宝石盗めば借金返せるじゃんラッキーみたいなアホ極まりない理由で妹の恋人のおうちに忍び込んじゃうんだけど、さすがに住居侵入+窃盗+器物損壊しちゃってるのであんな目に遭ってもしょうがない。それよりベルと再開した兄たちが急にベルと野獣を助けるのがよく分からない。妹のマントについてたブローチさえ盗んだアホなのに。アホだから?

 

 わたしが現代生まれの日本人だからか、全体的に誰の気持ちも分からなくて、ただただ人間と景色の美しさを楽しむだけの映画になってしまった~

 分かりやすく勧善懲悪というわけでもないし、説明するだけの台詞や逆に言いっぱなしの部分も多い気がする。ディズニーと違った舞台や世界観は面白いし、美術もすごく凝っているだけに少し残念。

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 3回観た。(4D/3D、2D吹替×2。3D単品が見れなかったのが悔やまれる)

 

 その名も偉大なハリー・ポッターシリーズが随分前に終わってしまって、それからも時々思い出しては架空の学生生活を妄想したりしていたが、先日『ハリー・ポッターと呪いの子』の書籍が発売された。一気に読了してしまった。あの頃子供だった私達に向けて作られていると感じた。ドラコとハリーが親として対峙するときに、ようやくしがらみのない一人の子供として分かり合える場面などはとても良かった。

 それはさておく。

 

 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅。

 原題は『Fantastic beasts and Where to find them』。魔法生物飼育学で使われる教科書、『幻の動物とその生息地』と同じタイトル。

 著者は主人公であるニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニュートをエディ・レッドメインがやると聞いてもうこれはいい映画になるはずと思ってた。ちなみにニュート(とティナ)の孫は、のちに魔法生物学者になったルーナ・ラブグッドと結婚する。これはただの豆知識。

 

 舞台は1920~30年頃のアメリカ。まだ発展途上の雰囲気だが、流れる音楽はハリー・ポッター(ケルト音楽が多かった)と違ってアメリカらしいテレビ音楽やジャズが流れている。WWⅠ後の発展で自他共に認める世界最大の経済大国になった頃。全体的に明るくて陽気な音楽で構成されつつも、映像は曇り空が多いし、人々もそんなに楽しくなさそう。発展と裏腹の不安や暗さを感じさせる。

(ちなみに1920~30年といえば鉄の彫刻が生まれた時期です。これもただの豆知識)

 

 それにしても、出てくるキャラクターが全員魅力的すぎる。ニュートやティナ(キャサリン・ウォーターストン。恐ろしくスタイルが良かった)は勿論だけど、ノーマジ代表として主人公パーティに加わるジェイコブ(ダン・フォグラー)は、大体の大人は失ってしまう「信じられないことへの受容力」を忘れていない。とても心優しく、チャーミングで、それゆえニュートたちと心を通わせる。ハリー・ポッターシリーズに登場するマグルは基本的に、狭い世界の小さな幸せで満足しているような描写だけど、それに対してジェイコブはマグル代表としてはかなりポジティブな存在だと思う。

 ティナの妹クイーニー(アリソン・スドル。映画初出演だって)は、どこか浮世離れというか人間界離れ?した雰囲気で、魔法族だけの純粋な世界で生きてきたんだろうなという雰囲気がビシバシ伝わってくる。服を着替えるときも料理をするときも魔法を使う。にっこり微笑むときや魔法を使うときに唇を噛む仕草が可愛い。

 クリーデンス(エズラ・ミラー)がとても気になる存在だったし、実際今作でのキーパーソンだった。かわいそうなクリーデンス。黒髪で青白い肌で、暗い目をした男の子だ。悲しみと憎悪に飲み込まれる演技などは痛々しくてリアルだった。彼に救いがあってほしい。終盤に黒いもやが日光に漂うシーンがあって、クリーデンスはまだ生きてるはず、という意見も結構見える。わたしの意見はちょっと違う。あれはクリーデンスというより、オブスキュラスの残滓なんじゃないかと思ってる。もちろんクリーデンスが再登場したら嬉しいけど、オブスキュラスは宿主を探して生まれる生物(?)なので、クリーデンスが死んでもオブスキュラスは死なないのかも知れないな、とか。

 

 わたしが特筆したい点は、コリン・ファレルジョン・ヴォイトジョニー・デップが出ていること。映画を見るときに、なんというか「これは映画(作り物)だよ」と思って見るときと、「こういう世界が実在するよ」と思って見るときがあると思う。めっちゃ雑に言うと同じ原作を色んな監督が撮ってるとか、特に映画好きじゃない人でも知ってる役者を起用してるとか、現実に即した物語だったりとかしたら前者になると思う。世界観が全く独自だったり、監督の個性が強かったり、映画好きなら知ってる俳優を使ったり、有名俳優でも意外な役どころだったりすると後者になるんじゃないかと思う。

 映画ハリー・ポッターはわたしの中では後者だった。『賢者の石』を見たのが小学生の頃で、映画に明るくなかったというのもあると思う。マギー・スミスゲイリー・オールドマンとかは出てるけどね!アラン・リックマンも。みんなカメレオン俳優じゃないですか。存在をその世界に溶け込ませるタイプの俳優。

 上に書いたような俳優たちは(コリンはまたちょっと違うけど)わたしの中では存在感が強くて、もちろんいい意味で、あー映画だなー!って感じられる人達だった。特にジョニー・デップ。ジョニーのことは大好きだし出演してる映画は大体見てるけど、ハリー・ポッターシリーズの、しかも超主要人物のグリンデルバルトの役になるなんてびっくり。「ジョニー・デップの映画」にならないといいけどな~~~という懸念。

 

 ニュートのカバンから逃げ出した魔法生物もとにかく可愛い。わたしはデミガイズが好き。外見は賢い猿っぽいし、オカミーの子供(めちゃくちゃ巨大)の子守をするという頓珍漢なシーンもなんだかおかしくて可愛い。

 

 あと社会問題が取り上げられてると思った。魔女狩りが一つのテーマになっていることもあるし、舞台のアメリカでは魔法族は非魔法族に接触しないことが法律で定められている。それをニュートは「時代遅れ」だと揶揄する。

 MACUSA(アメリカの魔法省)で一番偉いピッカリ―議長(カルメン・イジョゴ)は、マグルに対して「彼らは恐れると攻撃的になる」と評している。これは一般的な人間全般に言えることかも知れない。的を得ていると感じる一方、マグルへの歩み寄りを拒否している政府に対しては人のこと言えないじゃんと思う気持ちもあった。

 ちなみにピッカリ―議長は「アフリカ系の女性」で、多分当時のアメリカならあり得ないことなんだと思う。

 

 最後のシーン。「雨で記憶を消すなんてお洒落すぎる」とは一緒に観た人の弁。

 ジェイコブも法律に則って魔法に関する記憶を消されてしまうんだけれど、その後オカミーの卵の殻を担保に開いたパン屋では、ニュートと一緒に探し回った魔法生物を象ったデザインのパンを販売している。お客に「どうやって思いつくの?」と尋ねられて「何となくね」と答えている。それに加え、そっと訪れたクイーニーが何も言わずとも微笑み返したりしてる。

 このとき使われたのは呪文ではなくて、スウーピング・イーヴルの体液を薄めた薬で、これは「悪い記憶を消す」作用があるとニュートは語っている。ジェイコブにとってニュートたちと過ごした時間が「悪い記憶」だとは思えないし、もしかしたら忘れてないのかもという気もする。

 忘却術ってどういう原理なのかと考えてるんだけど、記憶を「消す」、というよりは「開かない引き出しにしまう」ような感じなのかなと思う。無かったことにはならないけど、意識の表面までは上って来ない。無意識では覚えているから、非日常との出会いだった魔法生物をモチーフにしたり、恋した女性と再会して何だか通じ合ったりするんじゃないかな。というかそうだといいな。MIBでも消去した記憶を戻す機械があったじゃないの。アメリカの法律が追い付いた頃に結婚したらいいのになー!

 

 妄想が膨らみ過ぎて3000字になってしまった。

SCOOP!

2016.10.09 15:00

 

 普段は追われる立場の福山雅治が、追う立場=パパラッチ役になる!みたいな売り文句だったと記憶している。福山雅治に下品なパパラッチの役なんて出来るのか、結局スタイリッシュにかっこよくなっちゃうんじゃないのかと疑問だったが、結構しっかりと下品でエロくて汚いおっさんになっていて良かった。やっぱりちょっとかっこよかったけどそれは仕方がないと思う。

 舞台は東京。猥雑で、カラフルで、憧れと挫折の煮凝りみたいな都市だ。全編通してずっと少しずつ下品、感情的で、好き嫌いの分かれそうな映画だと思いながら見ていた。大人向け(感情を無理くり揺さぶられることにある程度慣れている人向け)なんだろうなと思う。

 

 落ちぶれたパパラッチの都城静(福山雅治)は、本当はファッション誌で仕事がしたかった行川野火(二階堂ふみ)の教育係を任される。最初は嫌々同行するものの、芸能スクープというものの下世話な高揚感や陶酔感に次第に夢中になっていく野火。彼女が二度吐く「この仕事最低ですね」というセリフは、前者と後者ではまったく異なる意味を持っている。

 

 パパラッチの仕事を一緒にやっていくうちに静と野火はなんとなくいい関係になってしまう。貞操観念などないに等しい静(一番冒頭のシーンがセフレとのカーセックスだからね)と、若くて良くも悪くも不安定な野火がそういう感じになるのは必然なんだろうなと思う。

 野火の無鉄砲な根性に静も感化され、同時にいい雰囲気に……なったところで、副編集長の定子(吉田羊)が部屋にやって来る。そこで、二人は元夫婦であったことが明かされる。どうやらもう離婚済みなのだが、静の部屋に食事を作りに行く程度には関係が続いているようである。気まずさに静の部屋を飛び出す野火をベランダから見下ろしながら、静と定子のキスシーン。アドリブだったらしいけど、この描写いる?と首を傾げる。

 定子は静と野火がキスしかけているところに出くわしており、二人のただならぬ様子は目撃している。それを踏まえて、「ちょうどよかった。手伝って」と野火に呼びかける。ここからは定子と静に性的な関係があろうとなかろうと、お互いにオンリーワンではないですよ、というスタンスが見えると思う。静が他の誰かとセックスしようが心痛めたりしませんよ、というスタンス。だけど、その時キスできなかった野火を見送りながら、その相手である静とキスをする(しかも愛情を感じるキス)、というのは、普通に考えたら定子の嫉妬心や独占欲の描写ということになってしまうんじゃないか? 別の解釈をすれば、定子自身も性に奔放であるとか、それだけ二人の関係が揺るがないものであるとか考えられるけど、腑に落ちない。

 野火と静のラブシーンもなんだか。直接的なセリフや描写はなく、朝日が白く照らしていて、スローモーションで。不潔で下品で色んな事を諦めている男・静と、素朴で好奇心旺盛だが憧れには遠く及ばなかったちょっとダサイ女の子・野火のセックスなのに、そんなに綺麗に撮っちゃっていいのかよと。そんな「二人は結ばれた」みたいな描写でいいのかよ。もっと生活感を出してほしいよ。静がちゃんと服を脱いでたのも、野火がブラジャー付けたままだったのもよく分からないよ。

 なんかわざとらしい。エロが全部わざとらしい。こういう映画ならもっと汚くていい。ただのサービスカットだった。

 

 取材のシーンは凄くリアルで、ロケ地も本当に芸能人が出没するスポットを選んでいるらしいし、しっかり顔を撮るために花火や別の何かで注意を引くとか、あえて挑発するとか、そういったアイディアも全て実在するテクニックなのだそうだ。

 実況検分中の連続殺人犯の顔を独占撮影するために、馬場(滝藤賢一)が奮闘するギャグ展開などはハラハラしつつも楽しかったし、普段はグラビアでページ数を稼いで食い繋いでいるSCOOP!編集部が、一つにまとまって協働する図は熱くなる。

 

 リリー・フランキーの怪演も凄かった。リリーさんはヤバイ人の役をさせたら天下一品ですね。ヤク中の情報屋・チャラ源を演じていて、静とは知己の仲。スウェットはよれよれ、髪ボサボサ、常にヘラヘラ笑っている。しかし、野火の存在によって静が希望を見出していくのに対し、情報屋に落ちぶれて妻子にも捨てられているチャラ源はそのままどんどん沈んでいく。団地の階段でのシーンは象徴的で、静は階段を上り、チャラ源は下り、それぞれの住処へ帰っていく。

 このチャラ源の終盤の狂いっぷりは、本当に恐怖を感じた。薬の過剰摂取で狂ってしまったチャラ源は、腹立ち紛れに妻とその交際相手を射殺し、娘を人質にとり大騒ぎを起こす。自分の勇姿を撮ってくれと呼び出された静は、愛用の一眼レフではなく、自分にとって宝物であるライカを持ってチャラ源を説得しに向かう。この時点で、静はチャラ源と共倒れする気だったのだと思われる。

 騒ぎを聞きつけてやって来た野火が物陰からカメラを構える姿に、チャラ源は静以外に撮らせる気はないと激昂し、発砲する。その瞬間、静は野火に「撮れ」と目配せし、銃口を無理やり自分に向ける。

 静は『崩れ落ちる兵士』を撮ったロバート・キャパに憧れ、カメラマンになっていた。キャパになりたかったが、なれなかったのである。代わりに自分を被写体にすることで、野火をキャパに近付けたかったのだ。と思う。

 

 映画に込められたメッセージが多くて、どれが主題なのかちょっと分からなかった。わたしはこの映画の硬派な部分がとても好きだったし、パパラッチの描写や芸能スクープという下世話な仕事もリアリティーがあって面白かった。でも、それだけに、終盤から急激に硬派側にシフトされたことで、定子や野火との恋愛関係がぼやけてしまったのが引っかかった。

 面白かったけど、感情で両肩を掴んでガタガタ揺すられるような感覚を覚える映画だった。とてもテレビ的で、日本的だなあと思った。

ゴーストバスターズ(2D)

2016.09.21 21:20

 

 学校帰りに。

 時期的に3Dは見られなかったので2Dで。でも、これは3D向けに作られてることを強く感じた。

 

 ストーリー的には1984年の『ゴーストバスターズ』を概ね踏襲しているし、ちょこちょこオマージュと思われる演出もあるので、前作を知っているとほくそ笑みながら見ることができる。

 素粒子物理学者であるエリン(クリスティン・ウィグ)は、かつてアビー(メリッサ・マッカーシー)とゴーストの実在を証明するための研究をしていて、共著で書籍を発表していたのがバレて、職場である大学をクビになるところから物語がスタートする。本人はその過去を忌むべきものとして封印し、親友であったアビーとも疎遠になっていた。しかし、彼女たちとゴーストが作中初めて出会うシーンでは少女のように興奮し、アビーと喜びを分かち合う。エリンが本心ではゴーストの存在をまだ信じていたことや、アビーとの友情も終わっていなかったことがわかるのが嬉しい。

 メカニック担当のジリアン(ケイト・マッキノン)と元・地下鉄職員のパティ(レスリー・ジョーンズ)が加わってゴーストバスターズになる。

 やっぱり書かなければいけないのはケヴィン(クリス・ヘムズワース)の存在だろう。やっぱりびっくりするほど男前。事務として雇われたが事務仕事をしている姿を恐らく一度も見ていない。大抵自分の写真写りを気にしたり(裸でサックスを持っている写真の破壊力がやばい)して一日を過ごしている。天然なのか単に馬鹿なのか分からない。意味不明すぎて一周回って愛おしくなってしまう。4人とお揃いのユニフォームを着て自分もゴーストバスターズの一員だと宣言したり、ケヴィンのほうも4人に対してそれなりに愛着を感じている様子。でも基本的に役に立つことは一切ない。

 

 1984年版では彼らを問題視している行政とのいざこざからひと悶着起きるが、今作では行政も警察も概ね彼女たちに協力的な立場を示している。でも今作では、協力には感謝するものの、表向きにはインチキというレッテルを貼るなどちょっとやり口が陰湿。

 また、1984年版は神(ゴーザ。ヒッタイトの神)が物語上のラスボスだったのに対して、今作は一人のメンヘラギーク野郎・ローワン(ニール・ケイシー)があの世じゅうの?ゴーストをこの世に召還することを野望に4人の前に立ちはだかる。神はやっぱり神なので、ある種の超越者だし、人間の都合は関係ない存在だ。それゆえ元の世界にお帰り頂ければ、お互いに丸く収まることができる。それに比べて今作のラスボスは人。だいぶイカレてるけど結局のところは人。あまり感情移入できるような好人物ではないが、なんだか絶望しちゃってる今の状況には何か理由や背景があったのだろうなと想像できる。だからと言って擁護できるポイントはあまりなかったけど。ラスボスが神から人、超越者から社会にあぶれた弱者に代わったことは大きな違いだと思う。

 

 1984年版は特撮感の強いところがわたしの好きなポイントだった。現代では技術も桁違いだし、さすがにCGだろうなと思っていて、果たしてめちゃくちゃ楽しいCG描写だった。アクションシーンはとても楽しく、倒しまくり壊しまくりで爽快感が凄かったし、普通のおばちゃん4人組(パティは若干例外だけど)がゴースト相手に飛んだり跳ねたりするのも見ていてワクワクさせられた。それに加え、要所要所では人が入ってゴーストを動かしているのが分かったり、特撮要素を残していてくれたのが特撮好きにとっては嬉しかった。

 

 基本的に馬鹿でハイテンションなノリで何も考えずに見れるけど、時々核心を突くようなセリフがあったり、人間の感情や行動の移り変わりがとても自然で筋が通っていて、いい映画だなと思います。

クリーピー 偽りの隣人(原作未読)

2016.07.03 15:15

ソラリス シアター04

 

 ありえないこと、あってはならないことほどありそうな気がするし、心のどこかではそんな非日常に足を踏み入れることを望んでいたりする。

 引っ越し先の隣人がとんでもない人間だった。それはままあることだ。(あってほしくはないが) 原作の小説では人当りのよい中年が後々本性を現していくのだそうだが、映画の隣人・西野(香川照之)は初めから怪しい。どこからどう見ても怪しい。ことさらに自然物の強調された画面のなかで、影に溶けこむように立っている西野の異質さは最初に見たときからずっと気持ち悪い。居心地の悪い気分にさせられる。

 

 自然物と対照的に表されているのが高倉(西島秀俊)の職場である大学構内。きわめて現代的で立体的なデザインがされている。それらと同じように、あらゆる場面で光の描写、影の描写が露骨すぎるほどに表現されていて、現実と虚構だとか、日常から非日常へ嵌まっていく過程を鑑賞者が嫌でも追体験していくことになる。

 中でも、ずっと夢を見ているような康子(竹内結子)が美しかった。最後の絶叫が本当に素晴らしくて(台本にはなかったらしい)、竹内結子の凄さを感じた。

 彼女のなかでは始めから夫婦の問題だった。西野は誘導がほんとうに巧妙で、「旦那さんと僕、どっちが魅力的ですか」と康子に問いかける。本当なら勿論夫である高倉を魅力的だと答える場面だが、理想の夫婦像を描けていないという葛藤を抱えている康子は「夫が魅力的だ」と即答することができない。そうすると、康子の心理では「なぜ即答できなかったのだろう→西野に魅力を感じているのではないか」という考えに至る。紛れもなくそれは康子自身が作り出した妄想であり、事実ではない。だが嘘だと断じる術を康子は持っていない。このようなやりとりがいちいち巧妙で、西野がいわゆる一般的な「悪意のある人間」ではないことが強調されている。西野の一連の言動は、彼にとってはごく自然なことなのだ。

 

 最後の場面で、高倉の「それがお前の落とし穴だ」という台詞の真意が初めは分からず、単に高倉の意志の強さでどうにかなったということなのかと思っていたが……よく考えると、高倉の犯罪に対する好奇心は学者的でありすぎて、端的にいえば異常だ。西野が異常であるように、高倉もまたある意味では異常だったのだろうなと思う。西野は自覚的に異常行動をとっているわけではなくむしろその逆であるので、自分と同じように異常な人間が目の前にいることには気付けなかったのかも知れないとは思う。

 あっけなく撃たれ、倒れた西野の表情や姿勢が絶妙だった。少し笑っているようにも見える。風が吹き付けて枯葉がかかるのもとても美しく、西野は本当に死んだのか?まだ生きているんじゃないか?と後を引く終わり方。だけど本当にあっけない。人間は死ぬ。そういうところを黒沢監督はかなり意識的に作っているのかなあと思っている。

 

 黒沢清監督は『回路』が大好きで、何度も観ている。今作も黒沢監督の人間観、のようなものがよく見える作品だと思った。

 少しだけ文句を言いたいこと、大人の事情なので仕方がないことなのだが、パンフレットで澪(藤野涼子)のインタビューが読みたかった。考察・批評はとても面白かった。